ひとりぼっちの若者の庭に、コスモスが、それはそれはたくさん咲いていました。
赤、うす桃色、白、どれも美しい花ばかりです。
彼の母親は、草花を心から愛した人でした。
彼の心の中には、エプロンをかけた母親が、花に水をまく姿や、花についた虫をとっている姿が
ありありと残っていました。

若者の母親の口癖は、こうでした。
「花みたいに、動けない小さなものでも、他の生き物を、楽しませることができるでしょ。
 私たち人間は、二本の手と二本の足が使えるんだから、せいいっぱい、他の人の役に立つことを
して生きていないと、お陽さまの罰が当たるのよ」
母親は、あるイギリスの詩人が言った、『忙しきミツバチは悲しみの時を知らず』という言葉が好きでした。
夫との仲がうまくいかず、心を痛めていた彼女は、この言葉を、実感として受け止めていました。
事実、一生けんめいに花の世話をしている彼女は、花の間を飛び交う小さなミツバチのようでした。

若者が六歳の時、母親は彼を連れて、二人きりで今の家に引っ越しました。
小さな家は見違えるほど美しくなり、古い壁もドアも、優しい人の手でみがかれて息を吹き返しました。
彼女は、庭も手入れして、一年中花が絶えないようにしたものでした。
幼かった若者には、両親になにが起こったのかよくわかりませんでしたが、大好きな母親と二人で
暮らすことになり、母親が淋しくないように彼なりに、いっしょけんめい明るくふるまいました。
母親の幼い頃からの夢は、花でいっぱいの古い木の家に、住むことでした。
その家は、彼女の夢の家だったのです。
若者は、母親譲りの、器用な指を持っていたので、花を育てることを、すぐに覚えました。
二人は、つつましく幸せに暮らしたのでした。
彼が一番好きな花は、コスモスでした。
母親も大好きで、秋には、庭が色とりどりのコスモスでいっぱいでした。
見た目が弱々しく、花びらも軽くてとても薄いのに、地面にしっかりと根を張り、少々のことには
びくともしません。
群をなして咲いているコスモスの一本一本が、母親に似ていると思いました。
母親の優しさと強さが、この花の中にこめられていると、若者は思いました。

病気がちだった母親が、庭と若者のことを心配しながら、この世を去ったのはもう五ヶ月も前のことです。
ひとりぼっちになった若者は、なにもしようとせず、母親の形見となった花をかわいがるだけでした。
母親のことを思うと、なにも手につかないのでした。
ただ、花の世話をしていると、母親が帰ってくるような気がして、庭の手入れだけは欠かしませんでした。
そうしているうちに、彼一人を置き去りにして、季節は移っていきました。
夏が過ぎ、秋が訪れ、彼の庭にも、コスモスがたくさん咲き始めました。

ある朝のこと、若者がいつものように花に水をやっていると、垣根の向こうを一人の娘が通りかかりました。
どこかに勤めているらしく、朝早くから白いエプロンをつけ、紙包みを抱えていました。
若者と目が合うと、娘はニコッと笑いました。
「とてもきれいなコスモスね」
若者のとまどった顔に、娘はあわてたらしく、澄んだ高い声で
「おはようございます」と早口につけ加えました。
「あ…おはよう…」
最後の方を口の中でつぶやいた若者を見て娘はもう一度、えくぼを見せると、歩いていきました。
若者の暗い胸の中に、ぽっちりと小さな灯りがともったのです。
それはずいぶん長い間、忘れていた気持ちでした。
なんとなく晴れやかな気持ちで、若者はその日1日を、過ごすことができました。

次の朝、若者は久しぶりに、身なりを気にしながら、庭に出ました。
昨日の娘に、会えるかもしれないと思ったのです。
娘は、昨日と同じ時間に、通りかかりました。
「おはよう…」
「おはようございます」 娘はえくぼを見せました。
「昨日は、いきなり話しかけて、ごめんなさい。あんまりコスモスがきれいだったものだから。
あなたが育てたの?」
「いいや…僕の母が作ったんだ」
「本当にきれいね。よっぽど、お庭が大好きな方なのね。もしよかったら少しわけて
いただけないかしら? 部屋に飾りたくて」
「ごめん…母はもういない。半年前に…」
娘は言葉をのみこみました。
若者がなぜ、淋しそうに見えたのか、娘にはわかりました。
「…ごめんなさい。私、なにも知らなくて」
「気にしないで」
「もう行かないといけないんだけど…また来てもいい?」
「いいよ。またね」
若者は、やっと笑顔を見せました。
娘は、思わず涙が、こぼれそうになるのを、隠しました。
娘も両親を亡くして、ひとりぼっちだったから。
笑顔を作って走り出した娘は、淋しそうな若者をどうにかしてなぐさめてあげたいと思ったのでした。

次の朝、若者は思いきって、娘に話しかけました。
「おはよう。あの…コスモス好きだったら、僕から少しあげるよ。母も喜ぶと思うから」
娘は、花が咲いたように笑いました。
「本当にいいの? ありがとう」
若者が、用意しておいたはさみで、コスモスをひとかかえ切って渡すと、娘はキラキラした瞳で
若者を見つめ、心から嬉しそうに礼を言いました。
若者は、なんとなくホッとしました。
それから時々、若者は娘に、コスモスを渡しました。
そして代わりに、娘の笑顔と笑い声を、もらっていました。

十日ほど過ぎたある朝。
いつものように通りかかった娘が、笑いながら言いました。
「今日、ほんとにいいお天気ね」
角を曲がった娘が見えなくなった後、若者は、空を見上げました。
こんな、子供みたいな気持ちで、空を見上げるのは、何ヶ月ぶりのことでしょう。
母親を失ってからは、明るい気持ちには、なれなかったから。
若者は、急に散歩したくなりました。
半年以上も、家の中に閉じこもっていた若者には、通りの空気は、とても新鮮に感じられました。
空はとても青く、高く見えました。
朝のひんやりした、まだ誰もいない舗道を歩いていると、見覚えのある商店街に出ました。
そこに並んでいる店を、若者はよく知っていました。
以前、母親とよく来たことのある、思い出いっぱいの通りでした。
この通りに、小さな花屋があったのを、思い出しました。
今ポケットにあるお金で、なにか買っていこうと、若者は思いました。

店の名は『コスモス』と言いました。
商店街の中でも、「コスモス」は、朝早くから開いていました。
若者はしばらく、店のそばで、母親との思い出をかみしめていました。
そしてゆっくりと、中へ足を踏み入れました。

前と同じように店は静かで、お客はまだ、彼一人でした。
小さな店いっぱいに花が並び、いろんな花が混じったいい香りに包まれて
彼は、母親のエプロンの匂いを思い出しました。
花の中でうつむいて仕事をしていた女の子が、お客の気配に顔を上げました。
なんとその子は、いつものコスモスの娘だったのです。
「いらっしゃいませ」
澄んだ声を上げた娘は、お客が彼だとわかり、ニッコリして立ち上がりました。
「よく来てくれたわね。嬉しいわ」
「ここにいるなんて、ちっとも知らなかった。昔、母とよく来てたんだけど、君はいつから?」
「ほんの三ヶ月前からよ。父さんが亡くなってから」
「お父さんが?」
「ええ。私、一人になっちゃったの。母さんは、ずっと前に亡くなったから」
若者は、驚きを隠せませんでした。
こんなに明るい娘が、そんな苦労をしているなんて、思いもよらなかったのです。
「…びっくりした? ごめんなさい。話すつもりじゃなかったんだけど」
「どうして君は、そんなに明るいの? 一人きりで、つらくないのかい?」
「そうね」 娘は笑って答えました。
「それは、私だってつらいわ。でも、泣いてても、どうしようもないし…。
 だから、できるだけ、父さんのこと、考えないようにしているの。
 一生けんめいに仕事をしてたら、その間は、忘れられるでしょう?」
若者は、娘のしんの強さに、あらためて驚き、黙り込んでしまいました。
娘は、黙ってしまった若者を、気の毒に思いました。
淋しそうな若者を、なぐさめてあげたいと思いました。
「あの…そうだわ。花言葉って知ってる?」
「花言葉…? 聞いたことはあるけど」
「一つ一つの花に、花言葉があるのよ。このスイセンは【神秘的】で、スズランは【幸福】。
 そこにあるフリージアは【清らかさ】なの、すてきでしょ。
 それから、スイートピーは【思い出ね】ね。あっちの、ほら、あそこになるディジーが…」
娘の話は、後から後から続きました。
とても幸せな気分になった若者は、店を出る時に、スズランを買いました。
ぞの小さなかわいらしい花の一つ一つが、なんだか、娘のように思えたからです。
風が吹いたら、娘のような澄んだ声で、えくぼを見せたスズランが、笑い出しそうな気がしました。

娘は別れ際に、
「また来て下さいね。それから、またコスモスをわけてね」 と微笑みました。
それから二年の月日が流れました。
若者と娘は、ますます親しくなりました。
二人はよく、お互いの家をたずねるようになりました。
娘が作る、おいしいお菓子や料理に、若者もすっかり元気になり
前のように朗らかに笑うようになりました。
二人でいると、時間がたつのも忘れるくらい、楽しいのでした。
若者と娘は、こじんまりとした花屋を開きました。
小さいけれど、一年中花が絶えない、すてきなお店です。
いつも仲がいい若者と娘に、いろんな花言葉を教えてもらえる親切な
店だと、お客さんたちの評判になりました。
二人の夢は、いつかこの店をもっと大きくして、もっとたくさんの人に喜んで
もらうことでした。

そしてまた、秋がやってきました。
青いまぶしい空が広がり、コスモスが庭いっぱいに、色とりどりの花を
つけた日に、娘は、若者のお嫁さんになりました。