「ああ…私も年とってしまったわ」
窓のそばで、女はつぶやきました。
周りには結婚して子供がいる人も多いけれど
女には、恋人さえいなかったのです。
女がいつも座っている二階の窓からは、通りがよく見えました。
幸せそうな恋人たちが、肩を並べて歩くのを見るたび、彼女は思うのです。
(私にもずっと昔、あんな幸せだった時があるのに…) と。
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そう、若者と娘は、幼なじみでした。
あの頃は二人で、よく遊びに行きました。
春野の原でのピクニックや、夏の浜辺での貝拾いや、夕涼みの花火。
雪合戦した時の、手の冷たさも覚えています。
けんかしたこともありました。
何度めかの春を迎え、若者が二十三歳、娘が二十歳になりました。
ピクニックの代わりに映画を見たり、食事に行くようになって、娘はお化粧を覚えました。
急に大人っぽくなった娘が、若者をじらしたり、からかったりするようになったのは
なんのせいだったのでしょう。
ちょっとしたことですぐすねたり怒ったりするわがままな娘に、優しい若者はしんぼう強く応え
いつでも、仲直りをしたのでした。
しかし、幸せは長く続きませんでした。
きっかけは、ほんのささいなことだったのです。
彼女の友達と若者が仲がいいことに、やきもちを妬いた娘が若者をなじり
いつもはおとなしい若者も腹を立ててその友達をかばってけんかが始まりました。
そのうち、お互いに過去のことを持ち出してひどい言い合いになり、気がついたら娘は
公園を走って出ていく若者の後ろ姿を見つめていました。
あの時、ベンチの横に咲いていたのは、あじさいだったでしょうか。
娘は、若者が放り出していった傘を拾うのも忘れて、何時間も雨の中に
立ちつくしていました。
そして二人は、二度と会うことがありませんでした。
気の強い娘は、自分からは、あやまれなかったのです。
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 あれから何年、たったことでしょう。
女は今日も、窓越しに、しとしと降っている雨を、ぼんやり眺めていました。
窓の外には、鉢植えのあじさいが、薄紫の花をつけていました。
その時、三人の親子連れが、通りかかりました。

六つくらいのあどけない少女と優しそうな母親と、そして微笑んで
少女の話を聞いている父親は、あの若者によく似ていました。

(まさかあの人じゃ…)

女は息をのんで、その人の静かな横顔に、目をこらしていました。
女の視線を感じたのか、父親がふっと顔を上げ、二人の目が合いました。
何年もの時を越えて、女は昔と少しも変わらない若者の面影を
そこに見つけたのでした。
激しい驚きから冷めると、次の瞬間、男の目はなんともいえない穏やかな
色をしていました。
少女が顔を上げ、急に立ち止まった父親に、なにか言ったようでした。
男は少女の手を取り、なにもなかったように歩いていきました。
後ろ向きになった大きな黒い傘を、男はほんの少し左右に揺らしたように
みえました。
女は男の後ろ姿に、あの日どうしても言えなかった一言を、つぶやきました。
(…ごめんなさい…)
あじさいが、かすかに揺れました。